今見ている世界がすべてではない。

   

星

73億5千万分の1のわたし

 

今わたしの目の前に広がっている風景。

どんな景色かなあ、と、改めて感じてみる。

 

その世界にはどんな人たちがいて、
なにを求めて
なにに楽しみを感じて、
どんな装いで過ごしているのか。

 

今、見えている景色って、
地球儀の上で見るとゴマ粒よりも小さなエリアで起こっていることで、

 

外を歩けば知り合いよりもすれ違う人のほうが
圧倒的に多いということも、わたしたちは皆、知っています。

 

国連データによると、2016年9月現在の地球上の人間は約73億5千万人だそうです。
そのうちのひとりが今、この瞬間に見ている景色は
全部ではなく一部なのだと、なんとなくはわかっているはず。

 

でもなぜか、
ブログを書けば、そのスマホの画面やパソコン画面が
わたしにとっての全世界みたいに思い込んでしまう。

Facebookで流れてくる友達の投稿が、世の意見の全てだと
思い込んでしまうときさえある。

 

わかっているはずなのに、そこを見落としちゃうときは

 

知っている

感じている

 

この二つには大きな違いがあって。

本を読んだら、その著者と同じ知識人になれるかといえばそうじゃないし

ブログを読んで、そのブロガーと同じ感性を持てるようになるものではないし

そんなことは百も承知なのに

 

なぜわたしたちは、本を読み、ブログの読者登録をして、
気になるセミナーやレッスンに参加するのだろうか。

 

それって、無意識に「わたしの見ている世界」を拡げたいと
思っているからなんじゃあないだろうか。

その思いが強すぎるときや

目指すものと現状のギャップが大きすぎると焦っているときに

違いを見落としてきたように思う。

私の今までのちっぽけな経験からの仮説だけど。

 

私たち日本人は

 

同じ人間という生物で
同じ国に籍を持っていて
同じ言語を話すっていう共通の部分と

 

異なる遺伝子配列で
異なる人生の歩み方で
異なる生活環境で
異なるコミュニティにいるという、個別の部分とを持っている。

 

それぞれが、別の場所でそれぞれの「今」を過ごしていて
それぞれが、別の思考や概念を持っていて

 

それでもなお、誰か自分ではない人に憧れたり、
また別の誰かと意見が違うことを嘆いたりするのって
人間だけの習性なんじゃないだろうか。

 

東京に咲くタンポポは、北海道で咲くタンポポを羨ましがらないし

日本海で泳ぐサカナは、沖縄で泳ぐサカナと違う模様だからといって憤慨していない。

…と、思う(けど話ができるのなら訊ねてみたい)。

 

ちょっと話がぶっ飛びました。
もうひとつ例えを挙げるなら、

 

外国人が観光で日本を訪れて、日本語がわからないからといって
私たち日本人のほとんどは怒ったりしない。

けれども、
同じ日本語を話す身近な知り合いが「あなたの言っていることは理解できない」と言ったら、ムッとするのは私だけではないんじゃないかな。

 

羨ましいとか、こうなりたいとか、わかってほしいとか
そういう感情があるからこそ、人類ってここまで進化して発展してきたのだろうけれど
度がすぎると自分を見失うことは容易。

 

人類学分野(社会人類学とか自然人類学など)に最近興味津々なので、こんな記事を書きました。

 

つまりなにが言いたいのかというと…

 

人の行動を気にしちゃう時間のうちのせめて半分を
自分が何をしたいのかばっかり考える時間にしてみたら
知らず知らずに景色は変わるよ、って
わりと最近、強く実感したの。

だからそれを伝えたかった。

たった三行のメッセージを回りくどくお届けしてみました。
最後まで読んでくださってありがとう。

 

 


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